カードワースをふりかえって

 言うことはとにもかくにもあるが、簡単にいって、いくつもユーザーに多難なハマりを波状的にあたえてきたフリーゲームウェアだとおもう。確信的なことをいって、これほどプロシリーズ・メジャーソフトに打撃をいれるのに、メガドリーマーな選手はいないということだ。
 夢をあたえるモノにとって大事なことは、コンスタントにコンディションを気を配ることが、スポーツ選手など、舞台にたつものにとって大事だが、なにはなくとも自分を知ることは大事だ。カードワースの製作者はグループASKだが、そこはなにをいっても、製作は完ぺきだ。その重要性はシナリオを制作するプレイヤー側にもいうことができる。
 まあ、ひとりがハマれば、そのゲームのポテンシャルに確信はあるわけで、当時雑誌の紹介など毎月あれば、効果的にユーザーを獲得することができる。その理解者たちはWEBに相乗効果的にハマる蜘蛛の巣をつくり、またグループASK自体、主軸はオンラインだった。
 時間は矛盾しない。いっぽいっぽユーザーの推移はあるが、ひかる宝石のごとくあるカードワースは、いつまでも深海のよどみのしずかのごとく息づいている。これがこわれるとき、ユーザーばなれではなく、管理者の脱退だ。現実にグループASKはカードワースの管理から脱退し、いまはいちユーザーの管理でオフィシャルサイトがうつり、カードワースは終わらずにいる。ひとの愛がいきものから他物にうつったのを、人物に返する比喩の概念だといえるかもしれないが、うしなわないとは、愛とは、それはそれは大事なものなのだ。
 理解とは人をうしない人をつくるごとしだが、歴史とは一のはじめに二が介在し、三を飛ばして、人はわすれるを知るごとしだが、逆流の流れにさからう川流のごとく記憶をよどみなく映像じたてに介在すれば、古いユーザーは根源に白いWEBサイトを思い描くだろう。これは、言葉がへただが、芸術に類するとおもう。
 雨に濡れた犬がかんがえることは、息をすることもそうだが、心臓がとまらないことだ。一見かんがえることだが、カードワースは死にかかって、そのわけは売れっ子作家の離反だ。飽きたのが現実であろうが、ポイントはそこより、他者がそのあとにおこしたトラブルだ。簡単にいうと売れっ子作家に対するショックブレイクだが、他ユーザーが見るに見かねて去ってしまった。誰もカードワースをやりたいという気持ちがない時期がうまれてしまった。
 そのあと売れっ子作家とグループASKの接近がおきたのはいつだろう。回帰現象をおこしてまたカードワースへの接近がうまれた。またべつくちからカードワースが第何次かわからないが、新しい新参ユーザーの獲得、いろんな意味でゆめがあふれている。だけど特機人がひとりでは、カードワースのシナリオ制作のカテゴリーはつとまらない。飽きるからだ。なにごとも派手なものには競争相手がいなければ、がんばるエネルギーとはたえないものなのだ。
 古山シウ、天地我人、品川コータ、大場康弘、これらの人をみて、カードワースがじつは高層でもっているというより中層でもっているゲームということができるのは、大作の完成に対して、情熱的に対立作もなく、持ちカードをすてるポーカーのごとく、つまらなくすってしまい、強大なパワーをもっている人がつづかない。制作は孤独だが、出典後も孤独では、製作の孤独がもたない。
 未来のメガドリーマーは誰だろうか。わたしは強敵が現れたときだけ、またシナリオをつくろうと思う。そのときはまじでやばいブツをあげようと思う。そのときまで、素材制作と感想人をやってようとおもう。なによりも、ユーザーはたのしむことが大事なのだ。
 カードワースっていがいとフロンティアだなっておもうことがある。カードワース市民にいろんなカテゴリーがある。たかく慕われている素材サイトがある。もう組織体である。ここまでキャパのあるゲームがフリーだ。いまのところこのゲームが限界だなとおもえるシナリオゲームは生まれていない。

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