関係のない詩をCWと照らし合わせて

『葉縫い』 作:大場康弘

 影のみなもになにも言わず

 暮れの赤飯炊きながら

 夢をかたらい 宇宙などない空を見

 葉に針をぬいて 時を越す

 嗚呼 人の世 人の世

 わかりやすぎせず わかりにくきせず

 理解とは 激流を産むごとし

 所詮 観念 その構成

 誰も反せず ただがあるがごとし

 構成にしたがい 社会はただがあるがごとし

 はじめから流れる血は夢の卵の群れ

 すべて夢に包括されなければ 骸あと見るまで



 上の詩をカードワースとあえてむずかしく結んでみると、シナリオをつくる達人道にあえていうことができる。ああがどうがいっても、大場康弘のシナリオ(泉に猫は帰らない、シェケナ・ベイベ、など)は、この詩でいわれていることを名実にこなしている。まさに100点である。
 たとえば「夢をかたらい 宇宙などない空を見」では諦観をいっているが、これは宇宙とは人間の希望の総体を言っているのだから、「宇宙などない空を見」では希望のない空間とは限界なのだから、限界こそ有限なのだという意味である。そしてそういう世界で上で「夢をかたらい」というのだから、人はいつか達するものなのだ。キャパシティの上限に。そして限界に達するまでちくちく楽しみ合うということだが、それがカードワースのコミュニティ・ザ・コスモなのである。つぎにいこう。
 簡潔に言って「葉に針をぬいて」の葉とは人間の脳のことで、それを針をぬいてというと、当然、考えるという意味になる。これ自体はどうでもない。
「所詮 観念 その構成
誰も反せず ただがあるがごとし」
 これは観念が存在する構成とは人間のメカニズムであり、誰もそのメカニズム、いわばその論理式の母体を曲げることはできず、存在とは、ただあるがごとしといっている。
「構成にしたがい 社会はただがあるがごとし」
 これも社会は人間のメカニズムの延長であることをいっている。社会=人間は、何の発想があっても切り崩せない。
「はじめから流れる血は夢の卵の群れ」
 これは全ては卵といっているが、夢の無数で存在していることをいっている。はじめからとは、一番先からという意味である。これがなんなのかというと、構成体である。なんの構成体であろう。ただ、夢の卵を大量に産みだしている構成体だ。それはCW的に言うと、CWのユーザー達なのかもしれない。
「すべて夢に包括されなければ 骸あと見るまで」
 いきなり本詩にはいり、CWをぬけるが、トップの企業ほど、この 理論は絶対でなければいけない率がおおくなる。歯車がいそがしく、きびきびとまわり、ある意味過去に例えていうなら、ライブドアがそういう系ものの、企業だ。そして、これをカードワース的に訳すなら、シナリオの点数をマックスにするなら、すべて夢で構成されなければいけない。例をあげれば前夜祭である。あれは表現のパーティーだ。ストーリー、描写、台詞、キャラクター、戦闘、説明。すべてに夢でないことがないからこそ、あの作品は神作品にあげられる。たんに無駄がないといえば、それまでのことなのだが。

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