シナ感想その2へ


 ヒドラから毒を採取し売るシナリオ。ストーリーや話しより、探索モノだ。探索シナリオ制作はあまりわたしは上手い方じゃないが、うまく出来ているなとおもった。たとえば、ヒドラがでる沼は、わざと音が違うとか。なんか選定士くさいシステムだけど、こういう力をぬくところつくる感性があるところを見ると、もっと大規模なシナリオをつくっても、上手くできそうだ。ただ文章力だけが今一な感じがして、この文章力で、大規模なドラマをふくんだものをつくると、ちょっと笑われるかもしれない。そういう意味で、小説を書いてみることをお勧めする。次のシナリオをつくるまえに。小説を書いて、色んな自分の好きな作家の文章と見比べて、なんども同じのを改稿すると、けっこう簡単に文章力がつくとおもう。それ自体は、一日消費ぐらいでけっこうできるし。
 そういう意味で、文章力をつけると、つくれるものの幅が広がると思う。もう、世界観や、キャラクターの個性づけなどはできるのだから、あとは、同じことでも、上手く書くか下手になるかの違いである。
 また、探索モノをさらに強化的に進化させるとしたら、あとはめんどくさいストレスに耐え、何日も夢にむかって進む、強靭な精神力である。それとあたま。レベル上位のシナリオにこういうのがあるが、ストーリーモノよりも、ここまで抜きんでることができる素質のある人は少ない気がする。まずつくりこみが大変すぎて、嫌になるからだ。本人がどういう経路を今後いくのかわからないが、もう見えない本人の素質がものをいうところなので、今後に期待。



 まずはじめに言って、構成がうまくできていると思った。探索アンド報告を繰り返す内容だが、探索が重くなく、軽快にシナリオを進めることができる。対応レベルが1~3のシナリオで、初心者を相手に難しい内容がなくプレイできるのはいいとおもう。これで探索が重たいダンジョンだったら中級者~上級者仕様だが、このシナリオは軽い上に雰囲気も軽くていい。さくっとできるところがいい。簡単なものといってはわるいが、簡単なものとしてできているとおもう。逆に簡単なものにしたくなかったら、人間のドラマをもっとつくることだ。逆に人間のドラマがなく、切実なものの演出がないため、さくっとできて、こういうジャンルなものとしてはいいと思う。
 人間のドラマを色濃く何層にも絵の具を重層に盛るように、ドラマをつくれば、下手なやり方をすれば、重たくやる気を失うが、うまくできれば人を感動させることができる。そもそも、人を感動させるとは、節目がないとできなが、節目がなんなのかだ。よくだめなものとしてあるのが(エンターテイメントとして)自分の精神に偏りまくった世界観だ。しかも不幸。だれもみたくない。面白くない。そもそも、重厚な人生でも、じぶんがわるくって陥ってる人生は、たとえ面白みがあるのならべつだが、ふつうはみたくない。人が感動するのは、シューマーにひとが善に移動するときだ。悪が、悪のまま、もはや神になれば畏怖はするが、通常やだ。浅瀬で気味が悪いというのはあるが、確かにジャンルには、悪魔みたいなやつが最後まで勝つ映画はある。だが普通のプレイヤーがそんなのがシナリオであったら、その制作者を無視するだろう。実にやりがいのないシナリオ制作だ。無視する理由は簡単だ。友達になったら変なことをしてきそう。一応ギルドはコミニティでもあるので、よほど自分たがりにこだわりがあり、かつ友達を失いたい人でなかったら、やめること。文章力が極端にあるのなら、逆にハードボイルド系の一派として格好いいかもしれないが、普通の人にそこまで文章力ないので、やめることだ。
 それでこの「ウィード調査依頼」だが、極端な悪も善もなく、のほほんに進んでいくのは、初心者対応としていいが、というかレベル1~3で重厚な善と悪のミステリーとかおきたら、ビビリまくるが、簡単にいうと、片手間でできるバイトみたいなシナリオだ。案外みんな大ドラマを制作する方が中級車・上級者なので、初心者層にやさしいシナリオだと言える。



 古山シウ氏の、漢くさい漢のファンタジア。これをささえているのが、じつは堅実なプログラムの壁のあつさ。全体的に、簡単につくられているなっていうより、凝ってつくられているのが点数となっている。カードワースのシナリオには、物語性と絵の個性性とプログラムの凝ってる性で評価される。これは全部10点中のうち8から9ある。ひいて高水準にあるシナだ。
 そして最終的にそれは演出というカテゴリーにぜんぶ類する。演出がひどく壊れた熱血漫画のようだが、こういうテクを手に入れるには、いくつか本当に漫画をかかないと、感性がやどらないと思う。もしかしたら漫画家だろう。たぶん漫画家だと思う。じゃなかったら、こういうのつくれない。
 ひどく作家影がレベルたかいが、カードワースと出会う前にやっていたことが、シンリオ制作にでると思う。



 いわずとしれた古山シウ氏のお店シナリオ。ある意味古参には知らないものはないだろう。彼の黄金伝説にある一作品なのだから。マニアなネタをひいているが、俺の世代にはわからない。ただ、いろいろあってちくちくしているなといえる点。お店シナリオは凝り性な人がやらないと、おもしろくないが、そして、コツコツ派でなければ、つくりきれない。大抵の最初の思い描いた構成を実現できない。わたしは制作期間が大作でも1日から3日なので、はっきりいってこういうお店系が苦手である。つくっていた後期など、製作が2日目にながれこんだ瞬間に放置していたもんだ。基本的に手抜きが好きな性格である。ストレスによわいだけかもしれない。しかし諸事情で胃が大破する状態にまで2回か3回あじわったが、それに関することは今でもながくつづいて、CWは二日目でぶちきれるわたしは、謎の人だろう。
 ところで、人間のタイプにはいろいろある。なかには途方もない無機的作業をなしとげる人がいるから、自分のタイプに最強なものをつくればいい。自分も、製作ストレスによわいのは、本当におもしろくないと、やる気がでなくなるというのをかえすと、できるものはおもしろいものが多いと言える。だから自分の場合、よほどつまらないのが駄目な人だといえる。しかし世の中、つまらなくてもコツコツつくっちゃう人がいて、そういうのは感性からして駄目なので、おもしろいのに気がつきにくい人だといえる。
 物事の方策論はやる・すてる・大破するの3つでもいいと思うが、いかんせん巡業者には無理なことをいってるのが自分でもわかる。自分をわかるというのはそういうことである。それでそういう視点で古山シウさんのこのシナリオをいって、彼も自分のことがよくわかっていると思う。というか、精度のたかいものをつくりあげるとなると、自分のことがおんこそわからないと、無理である。人間性はいろいろある。その人間性がいろいろあるなか、そのうちの本人が究極にまで自分をしらないと、他人に良いものをおすそだしできないからである。自分の観点からみての、自分の観点が、究極的に高くないと、自分の観点から究極的なものがだせない。だめな観点からはだめなものしかつくれないのと同じだ。
 では自分の観点とはなにかというわけだが、ひとゆえに経験である。しかしこれを言っても、いまあるものでしか、いま制作することはできないのだ。この古山シウ氏のシナリオは、多様な経験があるが、すべてを包括していうなら、「おもしろ武芸システム」である。それは年代の漫画雑誌・TVモノから、時代劇モノ、そしてそれを愉快に演出する個性プログラミング構造。よく見て、こういう風に自分の作品をいうのは、自力じゃわりと気がつきにくくて、他人の存在が必要だろう。そういう意味で古山シウ氏は、人の中にうまく生きて自分を創生したのだと思う。



 カードワースでここまで夏を表現しているものはない。やはりBGMが雰囲気にいい味を出している。こういうものを聴くと制作にmp3の使用が許可されたが、midiもいまだ戦闘力を褪せてないのがわかる。ぜひモノラル性の音のよくないスピーカーより、ステレオの感音性のたかいスピーカーを用意してこのシナリオを味わってほしい。たとえ今が秋でも、夏の熱気が伝わってくる。これは満期夏なのだ。ここまで夏の威力を才女のごとく表現しているのは他にない。
 砂浜におりても、うわー、家族用ビーチだなーのごとく、いろいろ用意されている。海の家など、よくある食べ物が用意されているが、丹念に夏の遊びをデッサンしている。
 評価的に高く、下手に似たような作をあげたならば蹴落とされるエネルギーを持っている。また言うが、シナリオ制作は、音楽をけちってはならないのが、よくわかる作品だ。それから表現する色彩はばしっと出すこと。それからカードのネタは細部までこだわる。これが高レベル作品の条件だなと、この作品をプレイして思った。



 廃屋の雰囲気を表現しているシナリオだ。ストーリーの時軸はない。こういう表現家が彼しかいないため、数年前からいるが、どこかで去るかなと思っていたが、いまだいるのはカードワースという枠をつかって、なにか自分の心を表現している活動がたのしいからだろう。
 それはカードワースが、絵画や小説と違って、マルチメディアに強く表現活動できることを物語っている。まさに現代なのだ。だがこういう使い方も、自分の精神状態に連作くどいと、見る人は減少してしまうような気がする。本人がやってることは、本人からも話を聞く限り、芸術だと思うので、芸術と言えば、右も左も作品は敵なのが芸術界であり、上にいくことなのだが、残念なことにほとんどのシナは芸術というより、芸術未満の遊びものであるため、他人の二作以上無いと一作では自分がどういう位置にいるかわからない。そういう意味では可哀相である。わたしはシナリオ制作者として競争できる位置をオススメするが、これは本人の考え方次第だ。ただ言うと、精神をはきだすのがマンネリ化して、競争が出来ないと、飽きるという現象が起きる。そこで消えるのも本人の勝手だが、たまには誰か敬愛する作家の作品とおなじステージで戦って、勝つというのも悪くないと思う。生きるとは、もっと軟派的なものだ。
 それで、芸術としてこれを見たときの感想だが、芸術にも芸術論があるがここは簡単に岡本太郎の理論をあつかって、いままでにないものこそ芸術だが、そういうものは見る者に醜い感情を発芽させる。きたないものだ。そして芸術に対して美術は見る者に美しく綺麗な思いにさせる。それはありきたりなものを美しく扱うからだ。この発言内容は、日本の芸術家でも採用している人は多いと思う。同じことを中村正義が別の時間軸で発言している。美術が既成的な理由はシンパシー的に納得するからだろう。
 本人のこの作品を取り扱う発言姿勢が美術的に見えるが、いままでにないタイプからして芸術だ。しかし評価とは他との差異なので、芸術をしようという考え方がないのでわからない。これは仕方がない事だ。


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